2023年11月7日、フレミントン競馬場。
約3200メートルを走り切ったウィズアウトアファイトは、メルボルンCのゴールを先頭で駆け抜けた。
そのわずか2週間前にはコーフィールドCも制覇。同一年に豪州を代表する二つのカップ競走を勝ったのは、2001年のエセリアル以来22年ぶりだった。
あれから約3年。
10歳になったウィズアウトアファイトは、再び競技会に出場した。
ただし、今度は誰より速く走る必要はない。
舞台は競馬場ではなく、メルボルン郊外のボネオパーク。
競技は――馬場馬術だった。
■ メルボルンC馬が「馬場馬術」で4位
9月11日から13日まで開催された「レーシング・ヴィクトリア・オフ・ザ・トラック・カーニバル」。
ここに集まったのは、すべて競馬を引退したサラブレッドだった。
ウィズアウトアファイトもその1頭。
キャシア・モンゴメリーとのコンビで馬場馬術に出場し、2つのテストでともに上位6頭へ入り、D1A Preliminary Dressage Championshipでは4位となった。
しかも、競馬ファンなら聞き覚えのある馬は彼だけではない。
豪州G1を複数制したハートネル、短距離G1馬エドゥアルド、ランドウィックギニーを勝ったコミュニストやライオンズロアーなど、かつて競馬場で走ったG1馬たちも参加した。
一方で、華々しい競走成績を残した馬ばかりでもない。
45戦5勝だったドゥーズイットは、引退後「タンゴ」という名前で馬術競技に取り組み、この大会にも出場している。
ここでは、G1馬も条件馬も同じ「元競走馬」だ。
そして500頭もの元競走馬が、もう一度それぞれの競技で順位を争った。
■ 500頭の枠が、数時間で埋まった
この大会が始まったのは2025年。
まだ2年目である。
ところが初年度から380を超えるエントリーが集まり、2026年は2日間から3日間へ拡大された。
用意されたのは23のチャンピオンシップ。
馬場馬術、障害飛越、ショーホース、複合競技などで、賞金総額は26万豪ドルを超える。
そして今年用意された500頭分の出場枠は、募集開始からわずか数時間で埋まった。
これは単なる「引退した名馬のお披露目会」ではない。
実際に競技馬として再調教されたサラブレッドが集まり、本気で競う大会になっている。
■ 数日前まで競走馬だった馬までいる
さらに驚く例がある。
ハイトルクという馬だ。
競走馬としては地方を中心に走った馬だったが、引退後に馬術競技へ転向。
2026年のメルボルン・インターナショナル・スリーデーイベントでは、競走馬として最後に走ってからわずか数日後に「Yulong Rising Stars Challenge」を制した。
今回の大会では、競走馬時代の調教師だったディーン・グラス自身が騎乗し、馬場馬術と複合競技に出場した。
競馬を引退して何年も休み、余生として人を乗せているわけではない。
競走馬としてのキャリアが終わる。
再調教する。
そして、別の競技馬として次のキャリアが始まる。
豪州で使われている「Off The Track」という言葉は、単に「引退馬」という意味だけではなかった。
■ なぜ、ここまで大きな大会を作るのか
ここで、このイベントの見え方が少し変わってくる。
レーシング・ヴィクトリアが進めるOff The Track事業には、引退馬の再調教や新しい飼い主探しを支援する仕組みがある。
サラブレッドの転用先として想定されているのは、馬場馬術や障害飛越、総合馬術だけではない。
ポロ、ポロクロス、プレジャーライディング、セラピー、牧畜作業、競馬場で他馬を誘導する馬なども含まれる。
さらに、通常の方法では第二のキャリアへの移行が難しかった馬を支援するRESETプログラムも存在する。
2021年以降、レーシング・ヴィクトリアの再調教・再配置などのプログラムによって第二のキャリアへの移行を支援されたサラブレッドは2700頭を超えた。
そしてレーシング・ヴィクトリア自身が、その役割をかなり明確に説明している。
目指しているのは、引退馬を保護することだけではない。
「競走を終えたサラブレッドへの需要を作る」ことだ。
■ 「守る」だけではなく「欲しい馬」にする
ここが、この大会の本当の面白さなのかもしれない。
500頭を集め、競技を行い、26万豪ドルを超える賞金を用意する。
G1馬も出場させる。
観客は無料。
さらに馬術関係者だけではなく、現役騎手や調教師、オリンピック選手まで参加する障害飛越のチーム戦も行う。
そこまでして大きな舞台を作る理由は、引退馬を「かわいそうだから引き取ってもらう馬」にしないためでもある。
サラブレッドは速く走るだけの馬ではない。
別の競技でも使える。
再調教すれば新しい仕事ができる。
実際に競技会へ出れば賞金も獲得できる。
そんな姿を大勢の人に見せることで、「競走馬を引退したサラブレッドを次の馬として選ぶ」という需要そのものを広げていく。
大会は、その巨大なショーケースでもある。
■ これは豪州だけの話ではなかった
調べていくと、同じ発想は世界各地にある。
英国には、英国競馬界の公式慈善団体「Retraining of Racehorses(RoR)」があり、引退競走馬をショー、総合馬術、馬場馬術、障害飛越、ポロ、エンデュランスなどへ転向させる活動を行っている。
米国ではRetired Racehorse Projectが「Thoroughbred Makeover」を開催する。
2026年大会は10月7日から10日までケンタッキー・ホースパークで開催予定で、主役はやはり再調教された元競走馬。
主催者はこれを、最近引退した競走馬を対象とする世界最大のサラブレッド再調教競技会としている。
10競技のチャンピオンを決め、賞金総額は10万ドルを超える。
つまり、ボネオパークで起きていたことは孤立した珍しいイベントではない。
「競走馬のその後」を、競馬産業の外へつなげようとする大きな流れの一部だった。
■ では、日本は?
ここまで来ると、当然気になる。
日本の引退競走馬はどうなのか。
実は日本にも、よく似た競技がある。
2018年から行われている「RRC(Retired Racehorse Cup)」だ。
引退競走馬を馬術競技馬や乗用馬へ転用する入口として始まり、現在は障害馬術、馬場馬術、総合馬術、TRECの4種目で競技が行われている。
さらにJRAは引退競走馬のリトレーニング指針を策定。
2024年には中央競馬、地方競馬、馬主、生産者、厩舎関係者などが協力する「Thoroughbred Aftercare and Welfare(TAW)」も設立された。
日本もまた、引退後のサラブレッドを「余生」だけで考える段階から、その先のキャリアまで考える方向へ進んでいる。
■ ゴール板の先にも、競走馬の物語は続いている
競走馬の記事は、最後のレースで終わることが多い。
「現役を引退することが発表された」
そこでニュースは一度終わる。
しかし馬の一生は、そこで終わらない。
2026年のボネオパークには500頭の元競走馬が集まった。
その中にはメルボルンC馬がいた。
G1馬がいた。
条件戦を走っていた馬もいた。
競馬を引退して数日後には別の競技への道を歩き始めた馬までいた。
かつて3200メートルを誰より速く駆け抜けたウィズアウトアファイトは、10歳になった今、馬場の中を静かに歩き、決められた運動の正確さを競っている。
競馬とはまったく違う競技だ。
それでも4位に入った。
競走馬にとって最後のレースは、必ずしも最後の舞台ではない。
ゴール板を過ぎたところから始まる競技人生も、世界にはある。
26.9.20 うまラボコラム班

