9月9日、ニューサウスウェールズ州とオーストラリア首都特別地域に住む14人が特別な権利を手にした。
14人の当選者が買っていたのは、5豪ドル、日本円で約480円の抽選券。その賞品は現金でも競走馬でもない。
10月17日にランドウィック競馬場で行われる、賞金総額200万豪ドル、約1億9000万円のザ・コジオスコ。その出走馬を一頭選べる権利だった。
しかも、選んだ馬が賞金を獲得すれば、その一部は抽選券の当選者に支払われる。
日本でいえば、約500円のくじを当てた一般ファンが、約2億円レースの出走枠を手に入れ、地方所属馬の馬主や調教師から「うちの馬を選んでほしい」と売り込みを受けるようなものだ。
9月9日には早くも9頭が選出された。しかし残る5枠を巡っては、レースとは別の競争が続く。馬が速いだけでは出走できない。14人の当選者に選ばれなければ、ゲートへ入れないのである。
■当選者は馬を買わずに「出走枠」を持つ
ザ・コジオスコは、3歳以上による芝1200メートル戦。出走可能頭数は14頭で、その14枠すべてが抽選券の当選者に与えられる。
当選者は、ニューサウスウェールズ州の地方部、または首都キャンベラ周辺で調教されている馬から、自分の一頭を探す。
ただし、指名すれば自動的に出走が決まるわけではない。
馬主側と連絡を取り、「この馬が獲得した賞金を、どの割合で分けるか」を交渉する。双方が合意して初めて、当選者の枠と競走馬が結び付く。
競馬を知らない当選者には、レーシング・ニューサウスウェールズが候補馬探しや交渉を手助けする。逆に競馬に詳しい当選者なら、自分で成績や適性を調べ、人気になる前に意中の馬へ接触できる。
2026年の規則では、枠の当選者が受け取る割合は賞金の最低40%。馬主側へ支払えるのは最大60%と定められている。
優勝賞金は100万豪ドル、約9500万円。馬券を一枚も当てなくても、自分が選んだ馬の走りによって巨額の賞金を得る可能性が生まれる。
約480円の抽選券は、当たった瞬間に「どの馬へ投資するか」を決める権利へ変わるのだ。
■調教師が一般人へ馬を売り込む数週間
通常の大競走なら、賞金、勝利数、レーティング、トライアルの優先権などによって出走馬が決まる。
ザ・コジオスコでは、そうした実績は当選者を説得する材料にすぎない。
そのため抽選日が近づくと、地方の調教師や馬主は候補馬の宣伝を始める。好走歴、1200メートル適性、ランドウィックでの成績、予定騎手、現在の状態を発信し、「この馬なら賞金を稼げる」と14人へ訴える。
2026年には、地方所属の有力牝馬メロディーアゲイン陣営が、シドニーで活躍するザック・ロイド騎手を早い段階で確保した。
調教師のリアム・ラディが語った理由は、騎乗技術だけではない。ファン人気の高いロイドを予約していることが、枠の当選者に対する「よい売り文句になる」と考えたのである。
つまり騎手の名前さえ、出走枠を獲得するための商品価値になる。
9月9日に選ばれた9頭の中には、グレースフルエレン、ラヴシャック、バンドオブブラザーズ、コンシダード、ソーユーペンスなどが含まれた。
枠を持つ側にも個人だけでなく、ホテルやグループがいる。ソーユーペンスを選んだのは、インベレルにあるタッターソールズホテルだった。
地方のパブで購入された5豪ドルの券と、地方厩舎の競走馬が結び付き、シドニーの大舞台を目指す。抽選後に始まるのは、馬主同士の売買とは異なる、期間限定の「出走馬獲得市場」である。
■大富豪の制度を約480円まで小さくした
この奇妙な仕組みには、明確な原型がある。
同じ10月17日に行われる、世界最高賞金級の芝競走ジ・エベレストだ。
ジ・エベレストも、通常の登録だけでは出走できない。企業や馬主などが高額な出走枠を確保し、その枠へ走らせる馬を探す「スロットレース」である。
枠の所有者と馬主が別々に存在し、賞金の分配条件を交渉する。ザ・コジオスコは、この富裕層向けともいえる仕組みを一般の競馬ファンへ開放した。
高額なスロット料を払う代わりに、必要なのは5豪ドルの抽選券。選ばれるのも世界的なスプリンターではなく、ニューサウスウェールズ州の地方厩舎で鍛えられた馬たちである。
レース名にも、その関係が表れている。
世界最高峰を意味するジ・エベレストに対し、コジオスコ山はオーストラリア大陸の最高峰。ザ・コジオスコは「地方競馬の頂上」を決めるレースとして命名された。
■創設時は12枠、賞金は1億円超だった
第1回が行われたのは2018年。当時の賞金総額は130万豪ドルで、出走枠は12だった。
抽選券は現在と同じ5豪ドル。ニューサウスウェールズ州内のTABが入るホテルなどで販売され、12人の当選者が地方所属馬を一頭ずつ選んだ。
創設の目的は、地方馬を単に保護することではなかった。
ジ・エベレストが開催されるオーストラリア競馬最大級の日に、地方の馬、調教師、馬主、町、パブ、競馬ファンまで一緒に連れてくることだった。
賞金はその後200万豪ドルへ増額され、出走枠も14へ拡大。優勝馬は地方競馬のスターとして注目され、2022年と2023年にはフロントページが連覇した。
一つの大レースが誕生したことで、地方厩舎の戦い方も変わった。春に状態を整えるだけではなく、抽選の時点で当選者に魅力が伝わる成績や騎手、物語まで用意する必要が生まれたのである。
■大レース直前だけ地方厩舎へ移しても出られない
賞金が大きくなれば、都市部の強豪馬を地方厩舎へ一時的に移し、出走資格を得ようとする動きも考えられる。
そこで2026年の規則は、「本物の地方所属馬」をかなり厳しく定義している。
出走する馬は、2025年10月18日までに資格を持つ地方調教師の管理下へ入り、その後も指定された地方の調教拠点に置かれていなければならない。対象厩舎の馬として、ニューサウスウェールズ州内の競走へ最低一度は出走する必要もある。
さらに驚くのはレース後だ。
ザ・コジオスコへ出走した馬は、原則としてその後12カ月間、資格を持つ地方厩舎に所属し続けなければならない。都市部や州外の厩舎へ移れば、獲得賞金を没収される可能性がある。
大レース当日だけ地方馬の看板を借りることは許されない。出走前の1年間だけでなく、出走後の1年間まで、地方競馬との結び付きが求められるのである。
一方、強すぎる馬にも制限がある。一定以上のレーティングを持つ馬や、指定期間後にG1を勝った馬は対象外。地方厩舎に所属してさえいれば、世界級の馬を連れてこられるわけではない。
ザ・コジオスコが探しているのは、都市部から一時的に移されたスターではなく、地方競馬の中から生まれたスターなのだ。
■レースは抽選の結果発表から始まっている
残る枠の当選者は、単なる幸運な観客ではない。
どの馬を選ぶか。近走成績を重視するか、これからの上積みを信じるか。人気騎手が決まっている馬を取るか。賞金配分をどこまで交渉するか。
判断を誤れば、有力馬が別の当選者に選ばれてしまう。早く決めすぎれば、その後に故障や不調が判明する危険もある。
馬主と調教師も待っているだけでは出走できない。自分の馬の価値を説明し、会ったこともなかった当選者に、約2億円レースの一枠を預けてもらわなければならない。
ゲートが開くのは10月17日。
しかしザ・コジオスコは、14人の電話が鳴った9月9日から、すでに始まっている。
#意外と知らない世界の競馬
26.9.10 うまラボ編集部

