皆さんは「デイリーダブル」というアメリカの馬券をご存じだろうか?
名前だけ聞くと少し難しそうだが、仕組みはいたって簡単。
指定された2つのレースの勝ち馬を両方当てれば的中する。
日本には同じ馬券はないが、「2レース連続の単勝を一つの馬券にしたもの」と考えれば分かりやすい。
例えば3Rで5番、続く4Rで8番を選んだなら、
3R 5番が1着
↓
4R 8番も1着
これで的中となる。
当然、1頭だけの単勝より当てるのは難しい。
ところが2026年8月9日、米国のモンマスパーク競馬場で、ちょっと理解しがたいデイリーダブルが出た。
3Rを勝ったザグレートアミラは単勝18.6倍。
続く4Rを勝ったテペヤックは単勝4.8倍。
では、この2頭を続けて当てたデイリーダブルは何倍だったのか。
わずか12.8倍だった。
最初のザグレートアミラを単勝で当てただけなら18.6倍。それなのに、さらに次のテペヤックまで当てなければならない馬券が12.8倍しかつかなかった。
単勝とデイリーダブルは別々のプールで売られているので、18.6倍×4.8倍がそのままデイリーダブルの倍率になるわけではない。
それにしても安すぎる。
実際、単勝の払戻金をそのまま次の単勝へ転がした場合に相当する倍率は約89倍。それに対して実際のデイリーダブルは12.8倍だった。
つまり、
「ザグレートアミラが勝って、次はテペヤックが勝つ」
この組み合わせだけが、単勝人気からは考えにくいほど大量に買われていたのである。米国の馬券市場に残された、最初の異変だった。
■過去2戦最下位の馬が、突然9馬身差
では、最初に勝ったザグレートアミラとはどんな馬だったのか。
これがまた強烈だった。
デビュー戦は最下位で、勝ち馬から31馬身以上離された。
2戦目も最下位。
そこから約6カ月レースに出ていなかった。
そんな馬が久々に姿を現し、単勝18倍を超える人気薄で9馬身差の圧勝を飾った。
管理するアンヘル・キロス調教師も、この時点で2026年はわずか2勝。
ところが次のレースでは、同じキロス厩舎のテペヤックまで勝ってしまう。
これが例の12.8倍のデイリーダブルを完成させた2頭だった。
ここだけなら、人気薄を連続で勝たせた調教師の見事な一日で終わる。
ところが同じ頃、約300キロ離れたサラトガ競馬場でも、よく似たことが起きていた。
■サラトガでも人気薄が次々と激走
サラトガで勝ったのは、クラシックロックとエムビーズメラニーズケアズ。
こちらも長期休養明けだった。
そして、いずれも事前には人気薄として扱われていた馬だった。英国のブックメーカーでは、それぞれ最大9-1(約10倍)、12-1(約13倍)程度の価格で取引されていたと報じられている。
さらにもう1頭、スクータルーも出走していた。
この馬は勝てなかった。
スタートで大きく出遅れ、猛烈に追い込むも4着。
しかしスクータルーも、事前のモーニングラインでは20-1(約21倍)とされた伏兵だった。
ここでモンマスパークとサラトガの出走馬を調べると、妙な共通点が見つかった。
ザグレートアミラ。
テペヤック。
クラシックロック。
エムビーズメラニーズケアズ。
スクータルー。
いずれも長期休養を挟んでいた馬たち。
そして直前の調整場所として浮かび上がったのが、メリーランド州のフェアヒル調教センターだった。
■「同じ調教センター」だけなら珍しくない
ここで日本の競馬ファンなら、
「同じ調教センターにいたから何なの?」
と思うかもしれない。
美浦で調教された馬が中山で何頭も勝ったところで、誰も不思議には思わない。
フェアヒルも複数の厩舎が利用する調教拠点なので、同じ場所で調教していたというだけなら、それほど大きな意味はない。
問題は、この5頭には人的なつながりまであったことだった。
モンマスパークで連勝したザグレートアミラとテペヤック、サラトガで4着だったスクータルーはキロス厩舎。
そしてサラトガで勝ったクラシックロックとエムビーズメラニーズケアズは、出走時こそエルネスト・オチョア調教師の管理馬だったが、以前はキロス厩舎に所属していて、馬主の意向でレース直前で転厩していたのだ。
つまり5頭すべてがキロス厩舎を中心につながっていた。
こうして、この5頭は「フェアヒル5」と呼ばれるようになった。
しかし、話はここからさらに大きくなる。
米国のデイリーダブルに残った不可解な売れ方とは別に、大西洋の向こう側でも、この馬たちを狙った異常な馬券購入が行われていた。
■英国でもフェアヒルの馬たちが狙われていた
英国のブックメーカーで買われていたのは、単純な単勝だけではなかった。
報道で明らかになっているのは、トレブル、アキュムレーター、イーチウェイ・パーレーなど、複数の馬をつなげる馬券だった。
トレブルは3頭の結果をつなげる馬券。
アキュムレーターは、さらに多くの馬を一つの馬券として組み合わせる。
イーチウェイは「勝ち」だけでなく「所定の着順以内」という部分も含めて買えるため、それを複数レースにつなげれば、すべての馬が勝たなくても払戻しが残る組み合わせを作ることができる。
そして英国側で狙われていた馬は、フェアヒル5だけではなかった。
同じ8月9日、コロニアルダウンズにはウィンストンウルフという関係馬も出走していた。
この馬は2着。
英国側では、この馬を含む6レースを使って馬券が組まれていたと報じられている。
結果は6頭で4勝、2着1回、4着1回。
複数頭を組み合わせる馬券としては、かなりの数が的中する結果になった。
■なぜ米国の馬を英国で買うのか
ここには、米国と英国の馬券制度の違いがある。
米国競馬は日本と同じパリミュチュエル方式が中心だ。
馬券を買った金額が一つのプールへ入り、売れ方によって最終的な倍率が決まる。
大金を入れれば、自分の馬券によって自分の倍率まで下げてしまう。
一方、英国のブックメーカーでは固定オッズで馬券を買える。
高いオッズが提示されているうちに買ってしまえば、その後に人気が上がっても、基本的には購入時のオッズが使われる。
長期休養明けの人気薄を大口で狙うには、非常に大きな違いになる。
しかも今回の馬券購入は、一つの店だけではなかった。
英国の競馬専門紙レーシング・ポストによると、10店舗を超えるブックメーカーの実店舗が影響を受けたとみられている。
パディ・パワーも、自社の英国店舗で異常な購入をリアルタイムに把握していたことを認めた。
関係者が示したブックメーカー側の負担額は、60万~80万ポンド規模。
日本円なら億円単位に達する可能性がある馬券作戦だった。
米国では、人気薄2頭のデイリーダブルだけが異常に売れる。
英国では、同じ一団につながる馬たちが複数の組み合わせ馬券で狙われる。
そして実際に馬たちは次々と激走した。
ここまでなら、驚異的な情報力を持つ馬券師による、歴史的な大勝負だったのかもしれない。
ところが9月1日。
フェアヒル5を見る目を一変させる事実が公表された。
■関係馬2頭から同じ薬物が検出
テペヤックとスクータルーから、アルブテロールという薬物が検出された。
米国競馬の薬物検査を担当する競馬公正福祉ユニットの検査によるもので、HISAはアンヘル・キロス調教師を暫定的な資格停止処分とした。
アルブテロールは気道を広げる作用を持つ薬で、人では喘息治療などにも使用される。
今回検出されたのは、レース直後の血液や尿ではない。
スクータルーは8月10日、テペヤックは8月13日に競走外検査を受け、その検体からアルブテロールが確認された。HISAの裁定情報では「non-inhalation Albuterol(吸入によらないアルブテロール)」の存在が問題とされている。
さらに、キロス厩舎では別の馬からもアルブテロールが検出されていた。
ボニータラフ。
7月10日に採取された検体から検出され、キロス調教師には7月28日に通知されていた。
フェアヒル5が一斉に出走した8月9日の12日前である。
■「大穴馬券的中」では済まなくなったフェアヒル5
当初、フェアヒル5は「何者かが長期休養明けの伏兵馬を次々と当てた」という、異例の馬券事件として注目された。
しかし、関係馬から薬物が検出されたことで、事件を見る目は大きく変わった。
米国では人気薄同士のデイリーダブルに不自然なほど資金が集中。
同じ日に、キロス厩舎とつながる長期休養明けの馬たちが各地で激走。
英国では、それらの馬を組み合わせた馬券が複数のブックメーカー店舗で大量に購入され、巨額の払戻しが発生した。
そして後になって、関係馬から同じ薬物が検出された。
ここまでの出来事が一本につながれば、単なる「大穴を見抜いた馬券師」の話では済まない。
馬の管理、薬物、内部情報、そして大西洋を越えた馬券購入までが結びついた、組織的な大規模不正だった可能性まで浮上する。
米国の競馬場で始まった不可解な激走は、英国のブックメーカーを巻き込み、ついには競馬そのものの公正性を問う事件へと発展した。
「フェアヒル5」。
最初は5頭の馬につけられた呼び名だった。
今では、米国競馬を揺るがしかねない巨大な疑惑の名前になりつつある。
真相は明らかになるのか?今後の捜査が注目されている。
#意外と知らない世界の競馬
26.9.6 うまラボ編集部

