2026年8月、競馬ファンにとって残念な故障のニュースが相次いだ。
昨年のダート2冠馬ナチュラルライズが右前浅屈腱炎を発症。JRAから「9か月以上の休養を要する見込み」と発表された。
その翌日には、2023年共同通信杯の勝ち馬ファントムシーフの引退が発表された。同馬も右前脚の浅屈腱炎を患い、約2年10か月ぶりとなった中京記念で復帰したばかりだった。しかしレース後に屈腱炎が再発。協議の末に現役を退き、イーストスタッドで種牡馬入りすることになった。
競馬のニュースを見ていると、たびたび目にする「屈腱炎」という言葉。
そして、この故障が発表された時には「9か月以上の休養」という非常に長い期間が示されたり、そのまま引退につながったりすることも珍しくない。
では、そもそも屈腱炎とは馬の脚のどこが、どのように壊れてしまう故障なのだろうか。
そして、なぜ一度発症すると競走馬にとってこれほど厄介なのだろうか。
■「浅屈腱」は前脚の後ろ側を走る太い腱
今回、ファントムシーフとナチュラルライズが発症したのは、いずれも「浅屈腱炎」。
正式には「浅指屈腱」と呼ばれる腱の損傷である。
場所を非常に簡単に説明すると、馬の前脚を横から見た時、膝から球節へ向かって脚の後ろ側を縦に走っている太い腱の一つだ。
人間でイメージしやすいものを挙げるならアキレス腱に近いが、もちろん構造や働きがまったく同じというわけではない。
重要なのは、この浅屈腱がただ脚を動かすための「ひも」のようなものではないことだ。
走っている馬の脚が地面に着くと、浅屈腱は大きく引き伸ばされる。そして地面を蹴って脚が離れる際には元に戻る。
つまり、伸ばされる時にエネルギーを蓄え、それを解放する「バネ」のような役割も担っている。
研究では馬の浅屈腱は、人間のアキレス腱と同じような「エネルギー貯蔵型の腱」と位置づけられている。
■競走中の浅屈腱は「限界に近いところ」で働いている
ここからが、屈腱炎を理解するうえで非常に重要になる。
サラブレッドは約500kgの体を、人間と比べても非常に細い四肢で支え、時速60km前後で疾走する。
JRAも、こうした身体条件で高速走行する競走馬には骨折や屈腱炎などの運動器疾患がつきまとうと説明している。
しかも浅屈腱は、かなり大きく伸び縮みすることを前提に作られた組織だ。
研究では、全速力に近いスピードで走っている時の浅屈腱には非常に大きなひずみが生じ、腱そのものが破綻する領域に比較的近い負荷で機能していることが示されている。
競走馬の浅屈腱炎では、日々の調教やレースによって小さなダメージが蓄積し、組織の修復能力を上回ったところで部分的な損傷として表面化するケースが重要と考えられている。
太いロープを何度も強く引っ張っているうちに、内部の何本かの繊維が少しずつ傷み、ある時まとまって切れてしまう。
イメージとしては、それに近い。
■「炎症」というより、腱の繊維そのものが傷んでいる
「屈腱炎」という名前からは炎症を起こした状態を想像しやすいが、実際には腱を構成しているコラーゲン線維が部分的に損傷していることがある。
特に競走馬の前脚の浅屈腱では、腱内部に「コア病変」と呼ばれる損傷部が形成されることが知られている。
超音波検査では正常な腱とは異なる暗い領域として確認され、損傷が大きい場合には腱全体が腫れ、脚の後ろ側が弓なりに膨らんで見えることもある。
屈腱炎では炎症だけではなく、腱という構造物そのものに損傷が起きているのである。
■一番の問題は「治る」と「元通り」が違うこと
では、十分休ませれば元に戻るのではないか。
ここが屈腱炎の最大の難しさだ。
腱は損傷すれば当然、体の治癒反応によって修復される。
しかし、修復された場所に作られる組織は、故障する前とまったく同じものではない。
正常な腱では、コラーゲン線維が力のかかる方向に沿って非常に規則正しく並んでいる。
ところが損傷後の修復では、その部分に瘢痕組織が形成され、コラーゲン線維の並び方も以前ほど整然とはしない。
その結果、修復された腱は元の正常な腱と比べて機械的な強度が劣る。
「メルク・ベテリナリー・マニュアル(獣医師向けに獣医学・動物医療の情報をまとめた専門医学資料)」でも、腱は血流が比較的乏しいため治癒に時間がかかり、形成される修復組織は正常な腱より機械的強度が低くなると説明している。
分かりやすく例えるなら「ロープ」である。
新品の一本のロープが途中で傷ついたとする。
時間をかけて補修すれば、また物を引っ張れる状態にはできる。
しかし補修した部分まで含めて、工場から出てきた新品のロープとまったく同じ状態に戻るわけではない。
そして競走馬の場合、その補修したロープに再び全力疾走という非常に強い力をかけなければならない。
ここに屈腱炎の本当の怖さがある。
■「普通に歩ける」と「競走できる」はまったく違う
もう一つ、屈腱炎を理解するうえで重要なのが、
「日常生活ができること」と「競走馬として復帰できること」は別問題だということだ。
休養を続ければ痛みや腫れが治まり、普通に歩いたり生活したりできるようになる馬はいる。
しかし競走馬に求められるのはそこではない。
調教で高速走行し、最終的にはレースで全力疾走できなければ「競走復帰」とはならない。
メルク・ベテリナリー・マニュアルでは、浅屈腱を損傷した平地競走のサラブレッドについて、治療法にかかわらず競走復帰の予後は慎重に評価すべきとしている。
実際、香港のサラブレッド469頭を対象にした研究では、浅屈腱損傷後の競走復帰率は損傷の大きさや腱内部の状態によって大きく異なった。
コア病変が腱の断面積の50%未満だったケースでも、再び競走できる可能性は29~35%。50%以上に及んだケースでは11~16%まで低下していた。
「屈腱炎になっても時間さえかければ元通り」という故障ではないことが、この数字からも見えてくる。
■そして最大の壁となる「再発」
競走復帰できたとしても、もう一つ大きな問題が残る。
再発である。
先ほど説明した通り、修復された腱は元の腱と完全に同じ組織には戻らない。
さらに、修復された部分そのものだけでなく、その周囲にも再損傷が起きやすくなることが指摘されている。
浅屈腱損傷について報告した研究では、過去の研究を踏まえ「初回損傷から2年以内に最大67%が再発した」とする報告もある。
今回のファントムシーフは、その難しさを改めて示した例ともいえる。
右前浅屈腱炎を発症してから長期間の休養を経て、約2年10か月ぶりに中京記念で実戦復帰。
ここまで戻すだけでも非常に長い道のりだった。
しかし、そのレース後に屈腱炎の再発が確認され、最終的には引退が決断された。
■治療法は進歩している。それでも「簡単に治せる故障」ではない
現在では屈腱炎に対して、休養と運動管理だけでなく、幹細胞を用いた治療やPRP(多血小板血漿)など、いわゆる再生医療も利用されるようになっている。
メルク・ベテリナリー・マニュアルでも、幹細胞、PRP、衝撃波治療などが現在利用されている治療法として挙げられている。
研究によっては、骨髄由来の間葉系幹細胞による治療が競走復帰の可能性を高めたという報告もある。
一方で、こうした治療を行っても、損傷した腱を故障前とまったく同じ状態へ戻すことは依然として難しい。
AAEP(米国馬臨床獣医師協会)の資料でも、幹細胞治療によってリハビリ期間そのものが短縮される証拠はないとされている。
治療技術は進歩している。
それでも、壊れた腱を新品の腱へ交換できるわけではない。
だからこそ屈腱炎は、現在でも競走馬にとって極めて重い故障なのである。
■「屈腱炎=即引退」ではない。しかし復帰の先にも壁がある
もちろん、屈腱炎を発症した競走馬が必ず引退するわけではない。
実際に長期休養から復帰し、再び重賞やGⅠで活躍した競走馬もいる。
今回のナチュラルライズについても、現時点で発表されているのは「右前浅屈腱炎」「9か月以上の休養を要する見込み」であり、引退が発表されたわけではない。
ただ、屈腱炎という故障の仕組みを知れば、その復帰が決して簡単ではないことも見えてくる。
損傷した腱を修復する。
運動に耐えられる組織へ成熟させる。
少しずつ調教強度を上げる。
そして全力疾走できるところまで戻す。
さらに復帰後には再発というリスクとも向き合わなければならない。
ファントムシーフが約2年10か月という長い休養を乗り越えて再び競馬場へ戻ってきたこと自体、決して当たり前のことではなかった。
そして、その復帰戦後の再発によって現役生活に幕を下ろした経緯は、屈腱炎という故障の難しさを象徴している。
ナチュラルライズには、これから長い治療とリハビリの時間が待っている。
再び競走馬として全力で走れる脚を取り戻せるのか。
その過程を見守りたい。
2026年8月27日
OGBうまラボ 編集部

